第二次世界大戦が終わりを告げた2日後の1945年8月17日に、後の大統領と副大統領となるスカルノとハッタがインドネシアの独立宣言を発表しました。これにより、インドネシアでは8月17日が独立記念日とされています(国際法上独立が承認されたのは1949年12月27日)。毎年8月に入ると、この独立記念日を祝うために、様々なイベントが開催されます。8月(Agustus)に行われる、これらのイベント群のことを指して、Agustusanと呼びます。
まず8月になると、あらゆるところに、インドネシアの国旗である紅白旗(Merah Putih)が飾られ、祝祭ムードが漂います。AgustusanはRT/RW(町内会)レベルでも開催され、土曜日・日曜日などには、住宅街の路地をふさいで、小さな運動会が開かれます。スキットにでてきたように、子供たちは、クルプック食い競争、袋跳び競争などの競技に参加します。ビンロウ登りは、4メートルくらいの木の棒(ビンロウpinangの木が使われます)の先端に、様々な賞品が安価なものから比較的高価なものまでぶら下げられ、それを1グループ4,5人ほどの男たちが取りあうゲームです。ビンロウの棒は滑りやすい上に油が塗ってあり、結構な高さがあるので、賞品になかなか手が届かず、各グループに何度も挑戦する機会が与えられます。時には、ゲーム終了に何時間もかかりますが、観客はその広場で応援しながら見守ります。その他に、ダンドゥット歌手のコンサートや詩の朗読会など、様々な行事が8月中繰り広げられます。
RT(エル・テー)はRukun Tetangga、RW(エル・ウェー)はRukun Wargaの省略形で、それぞれ「隣組」、「町内会」と翻訳されることが多いです。RTはおよそ30~50世帯から構成され、RWはおよそ8~15のRTから構成されています。これらは日本占領期に、統治行政上の便宜のために結成された隣組と字常会から発展したもので、現在もインドネシアにおいて最小単位の住民組織として末端の行政組織と密接なつながりを持っています。インドネシアの個人宅の住所には、よくこのRT/RWの番号が付されています(例えば、RT02 / RW 03)。
各RT/RWには長がいて、RT/RWはAgustusanを含む、社会生活上の様々な機会において、動員の単位となることが多いようです。たとえば、特定日の地域の清掃、夜警、住民情報の管理、訪問客の報告など、数多くの役割が行政側から与えられています。
インドネシアの国家のスローガンは「ビネカ・トゥンガル・イカ(Bhinneka Tunggal Ika)」といい、この言葉は「(我々は)異なっているけれども、一つである」(「多様性の統一」)という意味を持っています。つまり、インドネシアは多様な民族から構成されているけれども、一つの国家であるということを表しています。このスローガンは、インドネシアの国章の中にも見られ、聖鳥ガルーダがBhinneka Tunggal Ikaと書かれた帯を握っています。
まだオランダの植民地であった1928年10月28日に、民族主義者たちが議論の末、この国の基礎となる宣言文を発表します。この「青年の誓い(Sumpah Pemuda)」には、以下の3つの事項が宣言されていました。すなわち、彼らの祖国はインドネシアであり、国語はインドネシア語(bahasa Indonesia)であり、そして民族はインドネシア民族(bangsa Indonesia)であるという宣言でした。当時の民族主義者たちは、国内のあらゆる民族を統合し、自分たちは「インドネシア民族」という一つの民族になるのだという、新しい考え方を提示してみせたのです。以降、インドネシアでは、「民族(bangsa)」は「インドネシア民族」であり、その下位分類は「種族(suku bangsa)」と呼ばれることになりました。ジャワ人、スンダ人、マレー人、バリ人などの、いわゆる民族は、インドネシア内ではすべて「種族」として定義されています。